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研究テーマ:「経営者の名言から探求するビジネスマナー」 

研究テーマ:「経営者の名言から探求するビジネスマナー」 
執筆:クレアール経営学研究チーム

 

目次

「本稿の目的」

ビジネスマナーを学ぶという事を思いますと、就職・転職にあたっての面接技法を学ぶとか、冠婚葬祭の礼儀作法を学ぶ、また営業現場での取引先訪問時のマナーを学ぶ、職場の先輩や上司、同僚に接する際の失礼のない対応の仕方を学ぶ、とかなどビジネス現場に於いての相手に対する失礼のない礼儀作法の技法を学ぶ事がまず想起されるのが普通であろうかと思います。

これに関しましては大きな異論はないものの、このように考えますと、冠婚葬祭時の作法は別にしましても、学習者の中心的対象は駆け出しのビジネスパーソンで、ある一定年限を超えますと、ビジネスマナーは学ぶことではなく教えるべきこと、とほとんどの人が思うようになるのではないかと思います。

試しに今手許のPCでアマゾンサイトでビジネスマナーと検索しますと、1ページ目には28個程の書籍を中心とした商品が並びましたが、そのうち8つの商品には ”新人社会人”、”就職・転職”、”入社3年目まで” などのキャッチがついています。また、商品の表紙などが柔らかい感じのイラストで飾られている商品は17点あり、これらなどを見ましても、先程の感覚が裏付けられるのではないかと思います。

しかしながらこの結果から、ビジネスマナーへの学習ニーズが若いビジネスパーソンに限られると結論付けるのは拙速で、一般に持たれる先ほどのような感覚やアイテムの体裁が障壁となり、ニーズがありつつも、「今さらビジネスマナーとは恥かしい」という思いで、本来ビジネスマナーを改めて学びたいと感じている中堅・ベテランビジネスパーソンの行動に歯止めがかけられてしまっていることもあるのではないか、とも思います。

中堅以上のビジネスパーソンになりますと仕事上の権限と責任は当然増し、高い自立性と集団を動かすリーダーシップも求められてまいりますが、このことからこの時期より、高いリーダーシップの体現を求めて、この点に関して世間的に高い評価を受けている名経営者のコンピテンシーを、新たな学びとして求めるようになるというのも、ビジネスパーソンの行動様式のひとつでもあるのではないかと思います。

翻って、一般的に言われておりますビジネスマナーが、「ビジネスシーンで遭遇する相手に対する失礼なき礼儀作法等であり、その目的の中心は、相手と良好な関係を構築し相手から共感を持たれ、自身にとってのより良いビジネス環境を作ることにあること」、そしてリーダーシップが、「集団の目的達成に向けてのその集団への合理的な働きかけの仕方であり、これによって集団を動かし目的達成を図ること」、これらを考えますと、リーダーシップの作用にもビジナスマナーの作用と同じものがあると考えることができ、従って、名経営者のコンピテンシーを学ぶということは、名経営者が体現していたビジネスマナーを学ぶということになるのではないかとも思います。

従って、名経営者のコンピテンシーにビジネスマナーという視点少し加えてこれを再考していく機会が設けられれば、中堅以上のビジネスパーソンのビジネスマナー学習に対する障壁を取り崩すことができ、よりよい学習機会が提供できる可能性があるとの考えから、その試みの触りに挑戦したものが本稿です。
勿論、名経営者は多数おられ、その全てを知り尽くしているわけではない本チームの現研究ではありますが、取り掛かりの成果として今般まとめさせていただきましたこと、お許しいただければと思います。

考察の基本的ストラクチャーは、まずビジネスマナーの敷衍化に挑戦の上、それにマッチした、ある名経営者の言葉を起点にマインドマップ的に思考を拡げ、最後に本稿の段としての結論のようなものを見い出した、という形になっています。

 

「ビジネスマナー総論:敷衍化の試み」

ビジネスマナーと言いますと身だしなみや仕草、言葉使い、電子メールの相手に対する失礼のない送り方、冠婚葬祭に関する正しい作法、はたまた就職や転職などでの面接の受け方などが連想されますが、これらはビジネスマナーというものが、それぞれの場面で具体的な形として表現され、歴史的経緯から受け入れられているものに過ぎず、個々には適正と考えられるものであっても、それらでだけを単純に積み重ねていくだけではビジネスマナーそのものは敷衍化できず、結果として、未知なるさまざまな場面での適応力が発揮できないものと思います。

経営組織論の一般的なテキストブックを紐解きますと、集団(group)とは、何らかの共通の関心を前提に形成される人々の集まりとあり、たまたま居合わせた「群衆」のような集団にも「やじうま的な関心」があり、また、社会集団の中には、リーダーや地位、役割が決まっていたり、一体感を保つ連帯意識や皆が守るべき規範が維持されているものもあるとあり、ある何らかの集団が、一定の目的のもと集団構成が維持されるにあたっては、その集団内の人と人との間に働く共通の引力に相当する力を発揮するものが存在する、と考えられております。

この集団に属する引力は意図して人為的に作られ強制力を持って作用するものもあれば、
長い歴史の中、無意識のうちに形成され人々に受け入れられ、受け継がれてきて現在に至っているものもあり、この後者に類するものがマナーと考えられております。

このようなここから、一口にマナーといっても、それは単なる「作法」とか「しぐさ」だけではなく、人々が交流するとき、相手をくつろがせ、快い印象を与え、相互に信頼できる人間関係を作り、それを維持するための知識や考え方、言葉、表情、声の調子などすべてが、マナーを形成する要素になり、マナーは長い歴史の中で時間をかけて創造された、周囲の人々との交流についての「知恵」とマナーを、マナーに関する研究をしている多くの識者は定義しているようで、この「知恵」が集団の吸引力を作っているものと考えられます。

これに従ってビジネスマナーを考えますと、ビジネスマナーとは、ビジネスに携わる人々の集団において、ビジネスに於いて生じる「人間関係に於ける諸種の交流を円滑に推進する積年の知恵」とでも定義できるのではないかと思います。

経営者として、経営コンサルタントとして著名な三枝匡氏は、仕事の場面に於いて経験した出来事について、怒ったり悔しかったりしたことでも、それはそれとして感情的な部分を捨て去り、固有名詞が出てこない、そして属人による感情論ではなく、その経験を抽象化された言葉に削ぎ落とす作業が必要であり、そうしておかないと、その経験は先々の状況に適用させることができない、つまり、言葉や考え方の汎用性を高めて敷衍化した状態で記憶の中に冷凍保存しておくことが肝要で、それを蓄積し将来の事象に「適用」するというプロセスが、自論のフレームワークを持ちそれを使って物事を解決していくことだ、と説いておられますが、ビジネスマナーでもこれは当てはまるものと思います。

そこで、ここではマナーに関する先人の知見を参考に先のような定義を試みたわけでありますが、このように定義してみますと、本来のビジネスマナーとは敷衍化された、仕事に関する基本的な考え方であり、取り組み姿勢の一般論とも捉えることができるのではないか、と思います。そしてこのような視点で見てみますと、世にビジネスマナーとして具体的な場面毎で指南されている態様につきましては、その敷衍化は、経営的視点にて、名経営者、名リーダー、名参謀と呼ばれる方々が残された言葉や行動に、それを見つけることができる可能性があり、それを探求し、ひとつにまとめてみる努力を行うことは、ビジネスマナーを、単に礼儀作法の規範とするに留めず、仕事の経験や年数を問わず、自他ともに有益なものとなるのではないかと考え、以下ではこの視点から、ビジネスマナーを再考してみる試みを進めています。

このシナリオに準じ、ビジネスマナー総論の敷衍化を試みた本節を受け、次節では、まず仕事の取り組みに関します考え方全般に関し、網羅的にまとめられておりました次の名言を記し、この名言を起点にマインドマップ的に思考を展開させ、本稿結論を探求してまいります。

 

「樋口廣太郎氏に学ぶビジネスマナー」

『仕事十則』
一、 基本に忠実であれ。基本とは、困難に直面した時、志を高く持ち初心を貫くことであり、常に他人に対する思いやりの心を忘れないことである。
ニ、 口先や頭の中で商売をするな。心で商売をせよ。
三、 生きた金を使え。死に金を使うな。
四、 約束は守れ。守れないことは約束するな。
五、 出来ることと出来ないことをはっきりさせ、YES、NOを明確にせよ。
六、 期限のつかない仕事は「仕事」ではない。
七、 他人の悪口は言うな。他人の悪口が始まったら耳休めせよ。
八、 毎日の仕事をこなしていく時、「いま何をすることが一番大事か」ということを常に考えよ。
九、 最後までやり抜けるか否かは、最後の一歩をどう克服するかにかかっている。これは集中力をどれだけ発揮できるかによって決まる。
十、 二人で同じ仕事をするな。お互いに相手がやってくれると思うから「抜け」が出来る。一人であれば緊張感が高まり、集中力が生まれて良い仕事ができる。
『管理職十則』
一、 組織を活性化しようと思ったら、その職場で困っていることを一つずつつぶしていけばよい。人間は、本来努力して浮かび上がろうとしているのだから、頭の上でつかえているものを取り除いてやれば自ずと浮上するものだ。
ニ、 職位とは、仕事のための呼称であり、役割分担を明確にするためにあるのだと考えれば管理とは何かがきちんと出てくる。
三、 「先例がない」、「だからやる」のが管理職ではないか。
四、 部下の管理はやさしい。むしろ上級者を管理することに意を用いるべきである。
五、 リーダーシップとは、部下を管理することではない。発想を豊かに持ち、部下の能力を存分に引き出すことである。
六、 「YES」は部下だけで返事してもよいが、「NO」の返事を顧客に出す時は上司として知っていなければならない。
七、 人間を個人として認めれば、若い社員が喜んで働ける環境が自ら出来る。
八、 若い人は、われわれ自身の鏡であり、若い人がもし動かないならば、それはわれわれが悪いからだと思わなければならない。九、 若い人の話しを聞くには、喜んで批判を受ける雅量が必要である。
十、 結局職場とは、人間としての切磋琢磨の場であり、練成のための道場である。

この『仕事十則』・『管理職十則』は、元アサヒビール社長で今は故人となられた樋口廣太郎氏の名言で構成された訓戒です。

樋口氏は住友銀から転じアサヒビールに移られ、一時的な顧問を経て昭和61年3月アサヒビール社長に就任。スーパードライのヒットにて、当時瀕死の状態とも言えたであろうアサヒビールを、国内ビール業界のトップ企業に押し上げた人物でありますことは有名なところです。アサヒビールは、樋口氏の前任社長の村井社長も住友銀行出身で、樋口氏含めアサヒビールは4代続いて住友銀行出身者が社長に就任されており、その系譜は次の通りです。

・3代目 高橋吉隆氏  1971年2月〜1976年3月
・4代目 延命直松氏  1976年3月〜1982年3月
・5代目 村井 勉 氏  1982年3月〜1986年3月
・6代目 樋口廣太郎氏 1986年3月〜1992年9月

ここで実際にアサヒビールのIR資料から同社の業績を見てみますと、戦後1949年財閥解体のあおりを受け、過度経済力排除法の適用により大日本麦酒株式会社の分割でアサヒビールとサッポロビールが誕生。以来、さまざまな要因があるにせよ、明らかにアサヒビールの業績は右肩下がりのトレンドとなっており、スーパードライ発売直前では市場シェア10%を割るところまで業績が落ち込みましたが、樋口氏の社長就任により業績は急回復。反転したトレンドで、その後大きく右肩上がりの業績推移にて、一時の踊り場を経由しながらも、樋口氏の次に就任した、同社生え抜きの瀬戸雄三社長時代にはビールシェアトップの座を掴み現在に至っています。

もちろんこの業績推移につきましての理論的評価は緻密に行わなければならないものの、これだけの大きな変貌をとげた同社業績に関しましては、樋口氏の何らかの力が大きく作用したものと考えるべきであり、同社業績のV字回復の大きな要素の一つが樋口氏にあったものと考えるべきものと思います。

樋口氏は、生前多くの著作物を残されており、また、日本経済新聞の「私の履歴書」にも、大きな節目となる21世紀に入った最初の年である2001年1月1日より同31日まで、自伝を執筆されていて、研究の参考とできる文献は多数あります。
これらの文献を、紐解いてまいりますと、樋口氏の人間系の力が大きな要素となりアサヒビールの類まれなる業績推移を作り出したものと考えられるのではないかと思います。

そして、その人間系の力の具体的な現れは、樋口氏の行動にあり、その行動の基盤となる考え方が、前述いたしました『仕事十則』、『管理職十則』であるものと考えられます。

樋口氏は京都の布団店で生まれ、幼少時からその父の影響を受け育った、と自ら懐述されています。誰もが認める天真爛漫で非常に明るい性格は天性のものとしても、商売人として必要となる規範はお父様より受け継がれたものと思われます。

先の『仕事十則』の一つにあります、「口先や頭の中で商売をするな。心で商売をせよ。」は、樋口氏の著作に於いてお父様の懐述をする際には必ず言及されており、お父様の教えそのものと思います。

また樋口氏の明るい性格は、他人の意見や言葉を吸収していき、それを、自らが思う正しい生き方の自論のフレームワークとしていく触媒となっていたのではないかと思います。

例えば、『仕事十則』の「生きた金を使え、死に金を使うな。」は、樋口氏が銀行時代に仕えた伊部恭之助氏・堀田庄三氏(故人、ともに住銀元頭取・会長)からの教えでもあるものと思われます。

樋口氏の若き日、と言いましても1950年とのことですので、今から見ましたら半世紀以上前ということになりますが、東京支店勤務時代に樋口氏は伊部氏の部下として仕事をしていた折、伊部氏より、「友達付き合いは借金をしてでもしなさい。」と教えられたと懐述しています。現代的にはこの言葉を額面通りストレートにとらえてしまいますと問題になる場面もあろうかと思いますが、当時としましてはこれも、「機会は逃すな。」という教えと捉えることができたものと思います。これは孫氏兵法にて、「兵を計るに五事を以ってし」の「ニに曰く天」(事を為すにはタイミングが重要である。)にも通じるものであり、人間交流の場に於いて、古くより認知されていた知恵の樋口氏なりの敷衍化の仕方であるものと思います。

因みに、この「生き金を使え、」を樋口氏は別の場面では、「チャンスを預金できない」との表現で、スーパードライによる経営再生をハーバードビジネススクールが同スクールのプロパー授業にてケーススタディとして採用した際、特別講義の講師として同スクールに招かれた時に語っております。

またこの「生き金を使え、」の名言は、堀田氏の秘書役を樋口氏が務められていた時、後の歴史的経緯から見ると何かの因果かとも思われますが、その当時にアサヒビールの初代社長であった山本為三郎氏ともご交流があられ、その際に山本氏より教えられた次のエピソードからもヒントがあったのではないかと思います。

樋口氏はある時、その山本社長から「もし人にお祝いを贈る時、五千円の予算だったら、君は何を贈るかね。」と聞かれました。そしてにわかに思い浮かばず答えられないでいる樋口氏に対し、山本社長は次のようにお話しをされました。

「贈り物は相手の心に響くものでなければ意味が無い。相手の趣味もあるが、相手がもらった時にハッとして、使いたいと思うものでないとダメだよ。予算が五千円ならば、その金額で買える最高の品物を贈りなさい。例えばワイシャツは五千円では最高の品は買えないが、靴下なら最高の靴下なら最高級の物が買えるはずだ。どんな偉い人でも、喜んで使ってくれる。一番まずいのは、絵や壷を贈って、中級品で済ました場合だ。相手は自分の方がもっと良い物を持っていると思うに違いない。」

樋口氏はこのエピソードをヒントに先の敷衍化を行い自前のフレームワークを作られたのではないかと思いますが、その名言の背景にあると思われるこのエピソードなどを学ぶと、エピソードそのものが生きたビジネスマナー教材そのものであると思い、経営者の名言を辿る探求でビジネスマナーも考察できると思います。

なおこのエピソードは1965年頃のことであるようですので当時樋口氏は40際前後の頃と思われます。これを考えますと、ビジネスマナーに対する学びは、社会人1年生だけのことではなく、歳や経験には関係なく、学び方の切り口こそ違いがある場合もあろうことと思いますが、誰にでも必要なことであると考えられます。

『管理職十則』につきましては、その冒頭の「組織を活性化しようと思ったら、(以下略)」は、「熱気球論」という言葉にて、ビジネスパーソンの間では有名な樋口氏の言葉ですが、これは同則のニ、七、八、九と対となり、これらと同様のことは稲盛和夫氏の著作でも、人は誰でもより良い現実を作りたいと考えているもので、それを実現することが豊かな現実を作ることになるのであれば、その障害をとり除いていく事がリーダーに求められる役割であるという形で度々論じられています。

樋口氏は1926年、稲盛氏は1932年の生まれということを考えますと、「熱気球論」の原型発想は樋口氏が先かとも思いますが、経営者としてのキャリアは、稲盛氏が若くして京セラを創業したという点を考えますと、稲盛氏ではとも思えます。いずれにしましても敷衍化された「知恵」という点にてのビジネスマナー考察に於きましては、先後は問題ではなく、バンカー・経営者の関係にてお互いの影響のもとそれぞれが同様の趣旨にて確立された敷衍化された知恵の形と考えるべきものと思います。

 

「土光敏夫氏に学ぶビジネスマナー」

この誰しも人は浮かび上がりたいと考えるものだ、というやる気を熱気球のように例える考え方は、古くは上杉鷹山の火種にも根源がありましたが、火種に関しましては、土光敏夫氏(故人、元東芝社長・経団連会長)の次の名言も有名です。

そこでここからは、マインドマップ的に、思索を土光氏に連鎖させていきます。

『私(執筆者注:土光氏)は土いじりが好きだ。いつかも、新聞記者が「ゴルフをおやりになりませんか」と訊いてきたから、「あんな小さい玉をたたくより、大きい玉(地球)をいじるほうがいいよ」と答えたことだった。そんな土いじりのときだ。夏などには、引きぬいた雑草が大きな山になる。青いナマの草のことだ。紙くずで燃やしたぐらいでは、くすぶるばかり。そこで薪かなんかで十分に火種をつくり青草をふりかける。するとどうだ。青草でも赤い火を放って燃えあがる。燃えつきて灰になる。火種が強ければ、青草でも燃えるのだ。

私たちは、ごくわずかだが、”火種のような人”がいることを知っている。自分の内部から火を発し燃えている人だ。その人のそばにいると、火花がふりかかり、熱気が伝わってくるような感じをうける。実は、職場や仕事をグイグイ引っ張っているのは、そんな人だ。そうしてまわりの人たちに向かって火をつけて燃えあがらせているのも、そんな人だ。そんな人こそ真のリーダーだといえる。
実は誰にも火種はある。たしかにあるのだが、なかなかうまく火がつかない。ほかからの貰い火ではなさけない。自分の火種には、自分で火をつける。それができないようでは、リーダーなど覚束ない。』(土光利敏夫著 「経営の行動指針」より引用)

土光氏は現東京工業大学卒業後、石川島播磨重工業に入社しタービンの開発などを手がけた技術者で、以後同社社長、東芝社長を歴任し、鈴木善幸首相時代の第二次臨調会長を務めた、人間力豊かな名経営者です。近時の東芝問題の際には、「チャレンジ」のカルチャー創出者として、肯定的側面からその名前がよく目にざれます。

土光氏につきましては。「メザシの土光さん」の愛称が有名ですが、これは臨調会長時代の、質素な生活ぶりとして放映されたテレビ番組に起因したものと言われています。

土光氏の名言は、先の引用の出典であります「経営の行動指針」に100程収められていますが、樋口氏の「十則」とは違う形式で、ビジネスパーソンのあるべき態様がまとめられており、ビジネスマナー敷衍化のフレームワークとなるものと思います。

ここで挙げました一節も、「人は火種のような人であらねばならない。」という一つのビジネスマナーととらえることができますが、これを現実のもとする為には、という実現生の観点をここに加え再構築したのが、樋口氏の熱気球論でなないかと思い、ここにビジネスマナーの一つの進化のプロセスを感じます。

なお本考察の主題からは少しはずれますが、上記土光氏著作からの引用中、ゴルフボールに対し、地球を大きな玉と表現した点、土光氏のスケールの大きさを感じます。
土光氏は、相当の読書家でもあり、専門の技術書のみならず、その幅は社会科学、人文科学にも及び、古典への取り組みにも熱心であられてようです。

「経営の行動指針」最終100項目は ”日に新たに、日々に新たなり” との項題にて、

『一つだけ座右の銘をあげろといわれれば、中国の古典「大学」にある「まことに日に新たに、また日に新たなり」をあげたい。商時代の湯王が洗面盤に彫りつけ、毎朝洗顔の際自戒に資したという。』(以下略。引用)

と記しておられるところからそのように考えるわけでありますが、先の「大きな玉」の例えからは、莊子大鵬の逸話が思い起こされ、土光氏の思想原点を、ここに求めることもできるのではないかとも考えられ、古典とビジネスマナーの繋がりをこのような観点からも辿ることができるのではないかと思います。なおこの「大学」の一節は松下幸之助氏もよく語られております。

土光氏関連のエピソードとして、本論考ではさらに次の2点を備忘しておきます。

1点目は、東芝社長としての初出社日の事です。

土光氏の初出社日は大変衝撃的なものであったようです。「この会社では一番の後輩」という自己の考え方もあり、朝7時半、当時は日比谷にあった東芝本社に、それも歩いて出社したそうです。その時会社にはまだ誰も出社していなく、受付に守衛さんがいるだけの状態。
早朝歩いてのこのことやってきたこの老齢の人物を見て、この守衛さんは不審をいだきながら「どちらさまでしょうか。」と問いたそうです。
それに対し、当の土光氏は次のように答えたそうです、「今度、御社の社長に就きました土光という者です。宜しくお願いいたします。」

2点目は、東芝社長就任前、石川島重工業の社長時代のエピソードです。

昭和29年4月2日早朝、鶴見の土光家に検察官の一隊がやってきたそうです。その前年には朝鮮動乱が終わり、日本の造船業界は再度不況の波に襲われていきます。この不況対策として政府は大幅な利子補給を行っていましたが、これに関連してリベートが政界に流れこんでいました。日本政財界史上言われるところの、「造船疑獄事件」です。

この時検察側が調べた政・官・財界の関係者は8千2百人にものぼると言われており、逮捕された者は150人に達しています。その事件は、時の法相犬養健氏が指揮権を発揮して、自民党幹部の逮捕を中止させたことにより、かなりの部分がうやむやになってしまったようですが、これはロッキード事件と並ぶ、戦後最大の贈収賄事件といわれています。土光氏はこの時、造船工業会の副会長をしていて、政界に対するリベート渡しに一役買っていたのではないかと、疑いを持たれました。

検察官の一隊が土光家に着いたのは朝6時半頃だったようです。
「土光さんはいらっしゃいますか。」の問いに、迎え出た夫人の直子さんは「もう出かけました」と答えたそうです。
大会社の社長が、なぜこんなに早く家を出るのかと思い不思議顔をしておりますと、直子さんはこう言われたそうです。
「なんでしたら呼んでまいりましょうか。まだバス停でバスを待っていると思いますので。」
これを聞いた検察官一隊は、半信半疑ながら夫人に教えられた通り、そのバス停に向かったところ、老人が一人、ぽつんとバス停に立ちバスを待っていたそうです。そしてその老人に対し検察官は、「土光敏夫さんですか。」と訪ねたところ、「土光敏夫です。」との返答があったとのこと。

この時点で、担当した検察官は土光氏のシロを確信したと語っています。まさか造船工業会の副会長がバスと電車を乗り継いで通勤しているとは思いもかけず、そういう生活を送っている人なら、不正な取引をするはずがないと確信したからだそうです。
それでも一旦は、土光氏はバス停から家に戻され、家宅操作を受け、任意出頭を命じられ、さらには20日間の勾留生活を余儀なくされておりますが、結果は無罪釈放でありました。

このことは、それまでも常に身辺の清潔を心掛けてきた土光氏にとっては大きな屈辱だったに違いないものと思いますが、当人はさらに卓越した次のような後日談を残されております。「鉄窓飯は家で食べる食事よりもごちそうでおいしかったし、久しぶりの休養を十分に楽しんだ。」

これら二つのエピソードと関連し、土光氏はビジネスマナーに通じる次の名言を残されております。「自己に厳しく生きよ。人生には予期せぬ落とし穴がついて回る。公私を峻別して、常に身ぎれいにし、しっかりとした生き方をしておかねがならない。」

 

「石坂泰三氏に学ぶビジネスマナー」

土光氏からのマインドマップとしては、土光氏よりも年長者ながら、土光氏を大変尊敬し、土光氏を東芝社長、そして経団連会長に引っ張り出した石坂泰三氏です

石坂氏は逓信省官僚から、当時(大正4年頃)としては異色の転職で、若くして(このころ30歳前後)第一生命に入社し、その後同社社長に就任。以後東芝社長を経て、経団連会長を務め、前回の東京オリンピック資金財団会長、大阪万博会長も務めた「財界総理」と呼ばれた人物で、あの田中角栄氏も、石坂氏の前では小さくなっていたそうです。

石坂氏は1955年、当時の日本生産性本部の斡旋で米国に出向いた第一次トップマネジメント視察団の団長で、帰国後、石坂氏が、米国にはマーケティングというものがあり、日本もこれを導入しなければ企業競争に負けるとして、その概念を最初に日本に紹介した人物としても有名で、これが日本に於けるマーケティングの原点とも言われております。

この石坂氏、財界人としての手腕も然ることながら、大変な文化人でも、あり高い教養の持ち主でもありますが、樋口氏『十則』の中にあります、「YES、NOが明確」でかつ上にへつらうことなく、「上級者を管理することに強い意を用いる」ことのできた気骨のある人物で、その硬骨漢ぶりは並大抵のものではなく、その類なきエピソードが次の3つの備忘です。

まずは石坂氏が経団連会長を務めていた時のこと。世界に向けての日本経済の窓口としてのステータス向上に向け、大手町の一画に自前ビルを建てることにし、敷地としてその一画にある1800坪の国有地の払い下げ申請をした時のことです。

その界隈は、大蔵省印刷局の跡地というところから、当時は政府系金融機関や新聞社など公共性の高いところに払い下げられており、経団連も公共性の高い団体として払い下げ申請を行ったわけですが、当時の大蔵省からは一向に返事がない始末。場所柄その土地には、28件もの競願者があり、大物政治家がらみのものもあったようですが、石坂氏は正面から、そして何度も大蔵省へ足を運び、大蔵大臣であり自民党の実力者の一人でもあった水田三喜男氏に頭を下げられておりました。

それにもかかわらず、大蔵省側はぬらりくらりするばかりで煮え切らない態度ばかり。そのはっきりしない態度に、最後には石坂氏は、大蔵大臣に向かい、雷を落としました。その時の言葉が有名な、「もう、君には頼まない!」の一言で、大会社の社長ながら財界人がこのような言葉を大蔵大臣、それも与党実力者に発することは、今も昔を稀有なことで、日本経済の国際競争力向上という大義を経済人として貫き通し、立場の上下を超えてその公的大義を、民間人の立場ながら全うしようとする姿勢こそは、本来のビジネスマナーの本質ではないかと思います。

ちなみに当該払い下げ問題は経団連側の勝利にて、1963年2月に払い下げが決定され、経団連会館は1966年10月竣工に至っております。

石坂氏の大局に立った大義を貫き、上級者を管理・コントロールの上、権力に屈することなく正しい事を追求していく姿勢で啖呵を切る取り組みはこれだけではありません。次のエピソードもその一つです。

池田内閣の時代、神武・岩戸と続く好景気の中、日本の高度成長が加熱気味になったとき、当時の山際正通日銀総裁は、経営者を集めて、設備投資の1割削減を求める公演を行いました。これが石坂氏の大義・筋論に反したことで石坂氏の癇に障り、石坂氏は早速、記者会見を開き、次のようなモーレツな反撃をしております。

「自由経済の下では、設備投資をどうするかは、われわれ経営者が考えればいいことで、政府が決める問題ではない。ましてや日銀総裁の仕事なんかじゃない。日銀総裁は金融政策に取り組み、公定歩合をどうするかだけを考えればいい。むしろコンピュータ君を総裁にすればいいんだ。」

まさにコンピュータに劣るといわんばかりの痛烈な批判で、しかも正論でもあります。コンピュータが総裁であれば、ナマの人間のように政府権力におもねることなく、経済の実勢にそのまま即応し、適切な金利政策を果敢に打ち出せるからであり、この後も、コンピュータ君に劣る総裁が幾人か入れ替わり、しかも権力者の顔色をうかがうあまり、適時適切な政策をとるのを誤り、当時の山一證券事件での後手、山陽特殊製鋼事件での連鎖倒産拡大、列島改造ブームによる経済加熱の放任とそれに重なるオイルショックでのスタグフレーションの産み落としなど、日本経済に災いをもたらす一端となった、という歴史的事実があります。

最後は、最も強烈と思われます、戦後の間もないころ、最高、そして絶対の権力者であるマッカーサー元帥を袖にしたという前歴です。

連合国軍総司令部(GHQ)は日本駐留の際、日比谷にあった第一生命のビルを拠点として活動することを求め、その引き渡しを日本に要求しました。

日比谷の第一生命ビルは、もともと石坂氏が「普請奉行」として建てたものでありましたが、石坂氏の社長室を、マッカーサーもそのまま使っておりました。

ビルも部屋も、当時の日本にしては珍しく堅牢で、ゆったりした感じにできていたようで、そこで日々を過ごしていると、誰しもを、このビルを作らせた社長室の主をしていた人物はいったいどんな人物なのだろうか、と思わせるほどの作りであったようで、マッカーサーもその例外ではありませんでした。

ただし、マッカーサーには、もうひとつ大きな、その部屋の主に会いたかった理由があったようです。

マッカーサーが東京入りした直後の昭和29年9月9日午後、マッカーサーは当時第一生命常務であった矢野一郎氏の案内でこのビルを見て廻り、そのときこのビルを総司令部として接収すると決めたそうです。

巡視の際、マッカーサーは長身の上、大股で歩くため、まわりの人間は小走りをするほどだったとのことですが、そのマッカーサーが足を止め、じっくりと見入ったものがあり、それは社長室に置かれた緑がかった大理石の時計とのこと。そしてそれを見てマッカーサーは、”What a beautiful clock!” と呟いたそうです。

帰り際、マッカーサーはわざわざまたその部屋に戻り、もう一度、置き時計を眺めたという気に入り方。
格別豪華な置き時計ではなく、「なんて美しい」などというほどでもないなと感じられるものに対してのマッカーサーの反応は、”戦場で寝起きをしてきた元帥にとっては、特別な平和な美しさがあったのかもしれない” と、矢野氏はその時の感想を第一生命館の履歴書に記しているようです。

こうした感傷もあり、長年社長室でその時計を眺めた日本人、その人はどんな人か、どんな思いでいたのか。その人の顔を見、少し話してみたい、というマッカーサーの意向が、石坂氏に伝えられました。言わば出頭命令です。

これに対し石坂氏は、見事に跳ね除けました。
「俺は行かねえよ。」石坂氏の返答がこれでありました。そしてさらにこれに次の一言をつけ加えられております。「用があるなら、こっちに来ればいい。」

これは、石坂氏は、大戦戦犯の一つとして日本は強烈な反省を行う必要はありとの認識は当然持ちつつも、しかるべき時期の独立性・自立性と、それに立脚した世界への貢献の必要という大義を鑑み、権力への迎合は絶対にあってはならないという思いで発した、信念の言葉であると思います。

後日談としましては、このことも災いしたかどうか、その後石坂氏は総司令部より追放の仮指定を受ける羽目になりますが、そんなことは問題外で、吉田首相からの大蔵大臣就任養成も断り、財界人としてその後の日本経済の大きな発展に貢献されてこられました。

以上3点、石坂氏の気骨、筋を徹底的に通す姿勢をまとめましたが、この「筋を通す姿勢」こそがビジネスマナーとしての敷衍化であり、樋口氏の十則、ではさまざまな場面での筋の通し方を、少し具体的な形で表現されており、また、土光氏の言葉でも然りということで、様々な作法はあくまでもそれを支える歴史的慣習としての位置づけと考えるべきではないかと思います。筋論なき装飾は虚構と捉え、筋の通った考え方に基づく行動こそが、最重要のビジネスマナーの根本と結論付けたいものです。

 

「再び、樋口廣太郎氏に学ぶ」—名言“おいあくま”

信念からのマインドマップとしまして、本稿最後に、再び樋口廣太郎氏が述べておられます信条に回帰します。

樋口氏は冒頭十則の他にもさまざまな言葉でその信条を表現されておられましたが、それら名言の中で人気の高い一言が、この「おいあくま」のようです。

『怒るな、威張るな、焦るな、くさるな、負けるな』のかな書き最初の文字をそれぞれとって作った言葉で、人間社会で生きていくにあたり絶対に心掛けておかなければならないこととして、樋口氏が若いころ仕えた堀田氏(前掲)に学んだ精神であると著述されておられます。

権力を笠に着て威張るにはもってもほかで、しかし、粘り強さは欠かせませんし、また闘志を欠いてもいけません。この信条を表現したのがこの名言です。

また樋口氏は色紙を頼まれた際には、「呑舟の魚は枝流に游がず」とう「列氏」楊朱にあります言葉を揮毫されていたそうです。これは、「大人物はつまらない者と交わったりはしない、また大志を抱く人は細かなことにはこだわらない。」という意味の言葉で、この二つこそ、本来のビジナスマナーの具体的体現としては記されるべきものと思います。

 

本稿のまとめ

社会人としての日常生活のマナー・行動の規範・整理整頓などはやや古いと思われるかもしれませんが、相手を理解・尊重し、敬意をもって相手の行動に沿う対応は軽視できないと感じさせられますし、グローバル化に伴う地域や国、生活習慣、組織の風土や文化を理解することへの姿勢は、より重要になるということも当然のこと。日々のビジネス活動をスムーズにするということは、顧客や取引先だけでなく、協力会社や社内の他部署も含めた行動の基本であり、社会との共存共栄の原点だと思います。

また、「企業・組織のイメージは従業員の態度・行動で創られる」ということも往々にして言われることでありますが、ビジネスマナーに関しますこれらの事柄は、こう見てまいりますと、それは経営そのものであり、経営学、組織論のテーマにもなり得る内容を包含しているものと思います。にもかかわらず「今さら聞けない!」の意識からか、社会に出て年限を経るごとにその探究心が逓減するのが一般的な傾向で、取り組むべきことが解決されていないこの現状を鑑み、ビジネスマナーを、今までにない視点から再考察できないか、との思いで取り組みました本考察。

松下幸之助氏、本田宗一郎氏など、まだまだ本文で考察を展開させていきたかった名経営者の名言を多数ありましたがそこに至らず、また本考察としましても稚拙な内容でありますこと反省点は多い今回研究でありますが、少なくとも、通常は個別に探求されることの多い、樋口廣太郎氏、土光敏夫氏、石坂泰三氏という3名の名経営者の思想を、それもビジネスマナーという視点も加味して結び付ける機会となったことに関しましては、有益な情報が多少は発信できたのではないかと思います。

「成功のコツとは、成功するまで続けること。」松下幸之助氏のこの名言を持って、本稿締めくくります。

以上

(参考文献)
「ビジネスマナー入門」 梅島みよ・土舘祐子 日経文庫
「前例がない。だからやる」 樋口廣太郎 実業之日本社
「わが経営と人生」 樋口廣太郎 日本経済新聞社
「最強の経営者 アサヒビールを再生させた男」 高杉良 講談社
「[新訂]経営の行動指針」 土光敏夫 産業能率大学出版部
「私の履歴書」 土光敏夫 日本経済新聞社
「土光敏夫 人望力の研究」 若林照光 PHP
「勇気あることば」 石坂泰三 読売新聞社
「もう、きみには頼まないー石坂泰三の世界—」 城山三郎 文春文庫
「リーダーのあるべき姿」 稲盛和夫 ダイヤモンド社
「心を高める、経営を伸ばす」 稲盛和夫 PHP
「人間の達人 本田宗一郎」 伊丹敬之 PHP
「経営心得帖」「社員心得帖」 松下幸之助 PHP
「ザ・会社改造」 三枝匡 日本経済新聞社  等多数

 

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